私の事しか語れない。

日々の彼是。脳内垂れ流し。

喪わない瞬間の連続を今と呼びたい。

仕事中にTwitterのタイムラインをチェックしていることについては、気にしないで頂きたいけれど、とにかく第一報は、Twitterから知った。

自分のタイムラインが、あらゆるネットニュースとそれのリツイートとお祝いコメントで埋められていく。少し遡ると、ヤフーニュースよりも先に公式アカウントがメッセージを呟いていたことに、少しだけ救われた。

正直、全然ディープなファンじゃない。

ラジオは、オールナイトニッポンからしか聞いてないし、ライブも一度しか行ったことない。CDも1枚しか持っていないし、ダウンロード版ですら持っているのは3曲ぐらいだったと思う。イヤーブックは今年初めて買った。それも、どちらかというと対談の相手目当てだった。それでも、第一報が入った時に、まだイヤーブックが届いていなくて、限定サイトのメッセージを読めないことが悔しかった。

タイムラインに流れているコメントのように、嬉しい!とは、とても思えなかった。

ああ、そっかぁ。そりゃ、そういうこともあるよね。おめでたいことだよね。

そんな感じ。

腸ぶちまける気持ちで言えば、CPで激推しされてる人達が結婚まで行き着くとか、出来過ぎじゃない?とか思ってました。ごめんなさい。

ツーショット写真に困らないCPなんだから、お似合いに見えて当然じゃない?

でも、私達が知っているのはあくまで、ドラマの主人公達であって、その中の人たちのことまで知るわけない。

他の方も、ナマモノの扱いの難しさについて、言及なされていて、自分も妄想だけならいくらでも出来るけれど、堂々とあなた方を性的に消費しますとは、言えないし、それに類似するような事を言っている人を見かけると、よく言えるなと思ってしまう。

脳髄巻き散らかす気持ちで言えば、共演した相手役と付き合うとか、役者として切り替え出来なさすぎじゃない、と思ったし、端的に言えば、妬ましかった。少なくとも、二人が同じ空間にいられるから、仕事もプライベートも切り替えとかじゃなくて、フィジカル的に存在を感じられるから、付き合うとか結婚とか具体的なことになるんだと思うから。

世界中に何万人もいるフォロワーを表す数値の一つ。東京ドームで動員した何万席を埋めるピース。認知されるわけない。蠢く影のように思われるものの一端ですらない自分が、何かを感じたり、言葉にする必要なんてないのは、分かっている。関係ないもの。

ただ、ニュースを聞いてから、頭の中で、曲が流れた。新曲も、古い曲も、何かを示唆しているように思えた。そんなわけない。そんなミュージシャンじゃない。

新曲は、ラブソングだから、彼女のことを想って書いたとか言われるんだろうなと思ったら、たまらない気持ちになった。そんなわけない。ドラマのタイアップで、プロデューサーさんと打ち合わせして、プロとしての仕事が、そんなプライベートの道具だったとしても、表立って言うわけない。夢ぐらい、見させてくれ。

ああ、そうだ。夢を壊された気分になったんだ。舞台を見ていたはずなのに、急に素に戻ったところを見せられたような、混乱。役を降りた役者が、カーテンコールをしている時も、私はそれを素だとは思えない。

ラジオを素だと思ってしまうのは、なんでだろう。ラジオで話していることは全部本当だって、疑いようもなく思っている。それも、ほんの一欠けらのことなのに、すべて教えてもらえたような、少しだけ近づけたような、そんな錯覚をしてしまう。

それが錯覚なんだと、はっきりとわかったのは、第一報が、ラジオじゃなかったからだ。

いっそ、インタビューにもまともに応じない、事実としての創作しかないような人だったら。

沢山の人が、おめでたい二人の事実を教えてくれる。

今年のイヤーブックの対談相手のラジオも、テレビとは違う顔を見せてくれているようで、大好きなんだけれど、今回の事実に関しては、連絡を取り合ったということしか、話してくれなかった。メールの内容も、電話の内容も相手の発言については、ひとっつも話さなかった。

こういうのを、真実っていうんじゃないのかなって、思ってしまって、もっと大好きになった。

ラジオもエッセイもやらない、最推しに同じようなことが起こった時、どうなってしまうのか、想像もつかない。以前に熱愛報道が出た時には、相手の年齢を考えて、しっかりショックを受けたし、当然のように嫉妬した。祝福なんて、微塵も出来なかった。

でも、私が観るのはいつだって、創作としての最推しだから、いつの間にか、忘れてしまうんだ。創作じゃなく、カメラを通した時も、それは、変わらない。カメラの前に、プロとして立っているのに、素を見せるわけがないし、そう思わせてくれるから、大好きなんだ。

ラジオもエッセイもやって、自分の中から溢れ出る何かを音や言葉に変えてしまうミュージシャンなら、何かしらの変化を嗅ぎ取ってしまおうとしてしまう自分の浅ましさが恥ずかしい。

報道の3日ぐらい後にイヤーブックが届いて、数日放置していたけれど、対談だけでも読もうと開いた。

途中に載っていた10年前の写真があり、創作としての彼の顔が、10年で驚くほど変わっていた。プロとして、観られる側の人間として、彼の気持ちや体が変わっていったことが、よくわかった。

対談内容は、お互いの印象とか仕事に関してとか、わりと表面的なところだったけれど、お互いに、似てるところがあると思うんだろうな、と思った。

それは、さらに数日後に行われた、対談相手のユニット漫才イベントを観て、実感した。

彼らは、常に『今』を生きていて、戸惑いながらも変化して、その過程まるごと、私達に見せてくれる。変わったとか、変わりたいとか、今は違うとか、ちゃんと言葉にしてくれる。それでいいんだと、迷う姿を見せてくれる。

その、圧倒的リアルに、涙が溢れた。

本当は、そこまで見せるつもりなかったんじゃないかと、邪推してしまう。

ただ、溢れた。

芸事って、お笑いって、こんなに自分を切り刻んで生み出すものだっけ?

こんなこと出来る芸人って、どれだけいるんだろう。

技術を伴って、自分を全部曝け出すのは、舞台に立つ人の共通項なのか。

最後にサプライズ出演した若いミュージシャンは、まさしく今の、自分を曝け出す音楽をしていて、それを聴いている表情が最高に優しくて、12年の道が見える気がした。

「頼むな。」という言葉は、今だから言えるんだろう。

 

好きな人が増えるのは楽しい。でも、遠さに目が眩む。

届かなさに安心したりする。

受け取るだけの自分を恥じたりもする。

同じ空の下にいるのに、繋がれないもどかしさと、そうであるべきだと思う理性。

好きだと、臆面もなく、なんの照れも、衒いもなく言える嬉しさ。不埒さ。

夢に出てきただけで、満足してしまう。歌詞や台詞がリフレインする。

私は理解できていると思う。思いたい。想像は自由で、残酷で、傲慢。

SNSも同じ空の下にいるのと、意味は変わらないのに、距離感がバグる。

伝えたいけれど、伝わらない。

一端を観る。一欠けらを掬い上げる。それをさせてもらっている。

曝け出しているのなら、歓声の一音に、拍手の波の一打に、いいねの数の1つに。

愛されてる、求められていると思える自信の一粒になりたい。

幸せを、願わないわけない。成功を、祈らないわけない。

大好きだよ、これからも。応援するよ、 当たり前じゃん。

推しの動向に動揺していた自分の自戒を込めて。ごめん、キモイね。