私の事しか語れない。

日々の彼是。脳内垂れ流し。

立っている場所はいつも同じではないはず。

バレンタインデーを結婚記念日にしたことに特別意味はないけれど、バレンタインデーがチョコをあげたり食べたりする日ではなくなったことは、多少嘆いてもいいかもしれない。今年は、ちょうど金曜だったので、肉を食べに行きました。

ご馳走といえば肉であることを否定しないけれど、年を重ねるにつれて肉の脂が内蔵に諸々よろしくないので、そろそろご馳走の内容をアップデートしなくてはいけない気がする。魚か。あるいは、脂の少ない肉か。ジビエとか食べてみたい。

というわけで、結婚7年目に突入です。まじかよ。7年目の浮気か。あ、笑えない。

7年目でも、特に変わらず。変わらなくていいのか、という気はしないでもないけれど。それでも、お互いに年を取った分、少しずつ落ち着てきている気がするし、昨年や一昨年の精神状態と比べれば、多少よくなっていると思いたい。

数年分の結婚記念日前後の日記を読むと、自分の幼さとモラハラされっぷりに泣けてくるけれど、夫の短気は少しマシになっている気がする。

怒るだろうなという場面で怒らなくなってきた。自分の回避が上手くなっているだけだろうか。

結婚ってなんだろう、と思うような本を続けて読んだ。

結婚の奴

結婚の奴

 

 エッセイだと思っていたけれど、ジャンルとしては、私小説だそうで。

ロマンスドール (角川文庫)

ロマンスドール (角川文庫)

 

 推しが主演の映画は2回見ました。

時系列的には、ロマンスドールの映画を見て、結婚の奴を読んで、ロマンスドールの原作を読みました。

以下ネタバレ含む。

 映画に関しては、もう、推しが可愛いぐらいしか感想はなく。あと、バイプレーヤーの強さで映画の良さが決まる気がするな、とか。喜太郎さんが、最高に面白かったし、貝原ぽい推しを引き出してくれたのも嬉しかった。ピエール瀧さんをそのまま使ってくれた製作会社および配給会社に感謝します。ありがとう。

蒼井優さんの存在感は素敵だったけれど、端々で、山里の嫁・・・!と思ってしまうのが、勿体なかった。蒼井さんは何も悪くないけど。自分の中の話で。

1回目に観た時は、NTR属性無いからわからんな、と思ってた部分が、2回目に観た時に自分の解釈が間違っていたことに気が付いた。足りないなとか、どういう意図かわからないなと思っていたところは、原作を読んだら納得がいった。

ロマンスドールは、10年の夫婦の始まりから終わりまでで、結婚の奴は、夫婦(仮)が始まるまでの話だった。

内容としては、正反対だなと思ったけれど、形を求めているところは、同じかもしれないと思えてきた。

結婚とは、男と女が生活を共にするものである。

という、形を求めるところ。

結婚って、突き詰めれば単なる生活であることに異議はないのだけれど、何のために、他人の異性と生活しなければいけないのだろう、と考え始めるとわからなくなる。

単純に、生殖のためと言われれば、ものすごく納得する。それには、結婚という制度が、今の社会では有利だよね、と言える。

ロマンスドールの映画の著名人の感想がTLで流れてきて、夫婦間の生殖ではない性愛の繋がりが良かった、みたいな言葉を見た時にハッとした。

自分は、生殖目的で誰かと性行為をしたことが、ないかもしれないと気付いたから。

夫との行為すら、子作りだと思ってしたことがないかもしれない。

むしろ、排卵日かどうかも知らないくせに中で出すことに拘る夫を疎ましく思うことさえある。お前が射精するかどうかは、どうでもいいんだけど。と、何人かに対して、何度か思ってきた。

能町夫妻(仮)は、性嗜好が合わないので当然性行為はしない。しないことを前提として、お付き合い、からの結婚生活(仮)が始まっている。健全であるとも言えるし、不倫前提の結婚は、むしろ不純すぎるほどであるとも言える。

不倫であるけれど、不貞ではない。不倫の倫は、倫理観の倫。不貞の貞は、貞淑の貞。

そう考えると、そもそもお互いにベクトルが向いてないのだから、最初から倫理も貞淑もないようにも思える。自由、というよりも、そもそも不自由になっていない。

結婚というのは、もう、この人としか性行為をしませんという宣言でもあると思っていた。それを窮屈だなと思うこともあった。

夫婦の繋がりって、なんなんだろう、と考える。好きだから、一緒に暮らす。

それだけシンプルに暮らせている夫婦は、どれだけいるんだろう。

子供が欲しいから。家族になりたいから。でも、家族になって、親にジョブチェンジすると、夫婦は夫婦ではなくなる気がする。

子供がいなくても、好きな人との暮らしが、ただの生活になると。

恋がなくなると?恋ってなんだろう。衝動?脳内ホルモンの分泌?

結婚記念日の翌日。寝起きの夫が、「愛してるよ。」と囁いてきた。

中身がないな、と思いながら。「あいしてるよ。」と返す。

そのあいは、愛なのか、相なのか、哀なのか、わからないな。

社会的に生きる私は、社会的に生きる人を模範とし、恋をして、付き合って、結婚して、子供を産むんだろう、と思っていた。

性自認が曖昧だったという能町さんも、相手の性別や自分の性別は置いといても、恋はするんだろうと思っていた。

でも、思っていたような恋は出来ない。できない人もいるんだと思い知ったうえでの、形として、結婚(仮)。

実態は同居だろうか。性愛が介在しないから、そう思うんだろうか。

夫婦関係とは、性的な関係がなければ、成立たないのだろうか。

知り合いではないけれど、結婚当初から現在までプラトニックな関係を貫いている夫婦を知っている。そういえば、『夫のちんぽがはいらない』も、性的な関係を結べないことを悩む話だった。

『結婚の奴』の中でも、その本の話が出てきた。自分の悩みよりも、全然先に進んでいる人の悩みだと思った。というような感想が書かれていて、少し納得した。

性的に繋がれなくても、心で繋がっていいる方が、高尚に思える。

お互いに役割分担して、それぞれのペースで暮らして、たまに老夫婦みたいなお散歩して、それでいいんじゃないか。

どうして、それだけでいられないんだろう。

生活は、どうして、こんなにも私たちをすり減らすのだろう。

 

生活しないと生きていけないのに。

生活とか関係なく無責任に恋人かセフレでいられたら、お互いに都合のいい時間にイチャイチャするだけだったら、こんなに楽なことはないのに。

でも、いつまでもイチャイチャするだけの関係ではいられないんだよな。なんだろう、それは、社会に塗れた自意識のせいだろうな。

ずっと一緒にいようと思ったら、それは、もう、生活にならざるを得ない。

ジョブチェンジ、何度かしなくちゃいけないんだろうな。

そうした方が、うまく回るんだろうな。

それが、大人になるってことなのかもしれないな。

 

なんてことを、先月の半ばあたりから考えていたんだけど、なんかほんの数か月の間に世の中が怖いことになって、それどころじゃない感じですね。

明日から新年度だっていうのに。

できることは少ないし、何が正しいのかもわからなくて、怖いのに、上手に怖がれない。

非常時ほど、人との繋がりについて考えさせられる。

こんな時、政府に巨災対的な組織がいればいいのになって、思わずにいられない。

虚構ばかり観すぎて、現実の方が恐ろしいなんて、そっちの方が嘘みたい。