創ったものをみせてくれる。
事実は小説より奇なりと言うものの、小説の中の言葉が現実の状況とリンクして驚くこともあったりして、人が紡ぐ言葉であることには変わりないので、どちらも人の心とは切り離せない。
短い間隔で、フィクションの中にノンフィクションを取り入れた舞台の配信と、フィクションの中でフィクションを演じる映画を観た。
前者は、『フェイクスピア』で、後者は『ドライブマイカー』
どちらも話題作で、受賞作。
作品の内容に触れるので、折ります。
『フェイクスピア』の方は推しが主演だったので、是非とも舞台で観たかったけれど、相変わらずのコロナ禍で上京は難しく、そもそもNODA・MAPのチケット争奪戦に勝てるわけもなく、DVD化されるのを待つばかりだったけれど、配信してくれるというので、喜び勇んでチケットを買った。けれど、残念ながら3時間近い時間をぶっ通しで観ることは出来ず、10日間ぐらいの配信期間に1度しか見ることが出来なかった。なんのための配信なのか。時間の作り方が下手なのだ。
『ドライブマイカー』の方は、言わずと知れた話題作で、近くの映画館でも上映されることが分かったので、行きたいなと思っていたら、夫が日曜日も仕事だと言うので、いそいそと出かけることにした。映画館は入って、座ってしまえばもう、観るしかないので、これまた3時間近い作品だったけれど、しっかり見ることが出来た。
どちらも、さしたる理由もなく観ることにした作品だったけれど、なかなかどうして対になっているような作品を続けてみることになった奇妙さが、なんだか面白かった。
『フェイクスピア』は、言葉を題材にしたと謳っている。野田秀樹さんという方のことは、名前は知っているし、舞台をするたびに話題になる。出演されるのはTVでも活躍される役者さんばかりなので、一度は見てみたいと思っていた。一方で、学生の時に戯曲を本で読んだ時には、内容の難解さに、本当に理解が出来なくて、どういう舞台になるのか、想像も出来なかった。フェイクスピアも、舞台として上演されている状態を観れば理解できるけれど、飛躍してばかりの言葉のやり取りを文字で読んでも、きっと分からないだろう。ストーリーの流れはあるけれども、どの人物も唐突で、背景がわからずに、混乱を誘う。どんどん場面が変わり、それも、暗転を使わない場面転換なので、目まぐるしさが倍増する。叫ぶような台詞回しは、野田作品のお決まりなのだろうか。
つかこうへいさんの作品でも、役者がのどを潰しながら演じていたのを思い出した。
ハコの大きさにもよるだろうが、日生劇場でマイクを付けているのとは推しの声も違うように思えた。
暗転を使わない場面転換は、大きな布を行き交わせて、その後ろに隠れていたのか、布が出てるうちに忍び寄ったのか、急に人が現れたり消えたりする。
沢山のコロスが色んな役割を担い、舞台上に置かれた板が立てかけられたり、寝かされたりして、また人が現れたり消えたりする。
今の台詞は事実なのか暗喩なのか、言葉遊びなのかわからずに翻弄され続けていると、終にただの事実を突きつけられる。フィクションの演出で、マイムの中で、言葉だけは、紛れもない事実だった。
余談だけれども、その物語の核とも呼べるノンフィクション部分のネタバレを配信を観る前にツイッタに流れてきた感想で知ってしまい、知らなかったら、もっと唐突で、衝撃的だったんだろうなと、残念な気持ちになった。さっさと見ない自分が悪いんだけどさ。
もう一つ余談だけれど、前田のあっちゃんが出演されてたのは覚えてなくて、しかも3役だとは知らず、最後まで2役だと思ってしまってた。大変そうだけど楽しそうで、野田さんのワークショップに色んな有名俳優が参加したがるの、なんか納得した。
終わってみると、最初から最後まで、何かは一貫していて、遊びはあっても無駄はなく、ノンフィクションの重さが胸にずっしりと残った。
お決まりだろう長いカーテンコールの最後に主演である推しが客席を仰ぎ見た時の表情が、私が推しに落ちたと感じた時のそれで、やっぱり愛してるなと思った。
主要の出演者8人中3人が80歳て、嘘だろ?と恐ろしくなった。
長寿社会で、人間の果てを観ている気がする。
『ドライブ・マイ・カー』は、原作は読んだことがなく、なんとなく、色々なところで映画の宣伝やらを読んだり見たりして、簡単なあらすじを知っていただけだった。
それでも、名前の通りのロードムービーなんだろうな、と思っていたら、少し違っていた。
映画の題名が出てくるまでの部分をプロローグとするのなら、それだけで短編映画1本ぐらいだった気がする。前半部分で、たっぷりと夫婦の姿を見せられ、謎を残され、切ない気持ちになったところで、タイトルロール。
主人公は舞台の演出家かつ役者で、本編では地方の演劇祭で上演される作品を作り上げていく様子が主軸になっている。
地方に滞在中での車移動としてドライブがあった。滞在するのは広島でそこから瀬戸内に架かる橋を渡り、宿泊先である海沿いの宿と練習場所である劇場を往復する。
ただし、運転するのは主人公ではなく、運転手として雇われた女性。
主人公は、プロローグでは自分で運転していたが、本編では、運転される自分の車に乗る人となる。
この主体の移動とも言える、『する』人から『される』人への変化も、作品を示唆的にみせている。主人公は主体性を、『だれ』に譲り渡したのか。
この作品でも、言葉というものを効果的な装置として使っている。
演出家でもある主人公は母国語が異なる役者を母国語のまま機用するという、斬新な舞台を作っている。
違う言葉を使いながら会話をする、劇中劇の登場人物達を不思議な気持ちで見ていたけれど、結局のところ、私達の日常も、これと大きく変わらないんじゃないかと思えてくる。
物語の本筋としては、言葉を尽くさなかったことへの後悔を持つ者同士が、それでも生きて行く話であると、個人的に結論づけすることは出来る。
途中で起きるショッキングなアレコレや、岡田将生さん演じる若手俳優の人間の浅さと深さを同時に持ち合わせる複雑さ、きっと誰もが当たり前に複雑であるはずなのに、演じ手の表情や佇まいで、それがより際立って見えたことの、後味の悪さ。
話として、面白おかしいものではないけれども、映像の美しさに救われるような気持になった3時間だった。
結論に近づくにつれて、尻切れトンボになりがちなのは、自分の思考のクセのようなものだと思う。
核心のように、言い切ることができない。
どちらも、私にとっては印象深いいい作品だった。
どちらも、大きな賞を受賞されたので、それが、私だけの印象ではないことは明白だ。
フィクションとかノンフィクションとか、虚構と現実とか、中二病的な発想から、ずっと離れられないでいる。
正解がないからだ。
ただ、現実って、創造よりずっと残酷で、容赦ないものなんだなということに、何度も思わされる。
創造は救いであるべきだろうか。
必ずしもそうではないのは、創作の造り手もまた、ただの人間であるからだと思う。
それでも、私は創作に触れるのが楽しい。エンタメに救われる。
何度でも。