私の事しか語れない。

日々の彼是。脳内垂れ流し。

高らかに言うほどに難しいことを。

読書感想文と言えるようなものではないけれど、読んだ感想は書いておいた方が良さそうなので、散文になるに違いないけれど、書いておこう。

ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。

ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。

 

 正直、発売を知った時は、内容にそれほど興味はなかったけれど、トークショーイベントをされるというので、それに参加するために購入した。

丁寧に梱包されている割に背表紙にうっすらと汚れが付いていて、ちょっとイラッとしたけれど、手が汚れてるのも気に出来ないぐらい忙しい人が梱包してくれたのかな、と考えた。

読み始めた時は、たくさんの章に分かれているし、キリのいいところで止めて、何日かに分けてよむことになるだろうと思っていた。けれど、なんだか読むことを止められず、結局、最後まで一気に読み終わってしまった。

 

幡野さんのことは、Twitterで知った。多分、ほぼ日をフォローしてるので、リツイートされたものを見たのだと思う。幡野さんの息子さんの可愛らしい写真だった。

可愛い子供の写真は好きだ。ダカフェ日記の森さんみたいな写真家さんなのかな、と思ったら、全然違った。いや、森さんのことはよく知らないから、イメージ上でのことでしかないけれど、幡野さんは重かった。

何しろガン患者なのだ。余命宣告も受けている。ガンにも色々あるけれど、幡野さんのガンは、今の所、完治する方法はないらしい。

昨年、写真展を開催されていたので、観に行った。息子さんの写真展だった。生まれた時から、最近までの写真だった。可愛かった。泣けてくるぐらい可愛かった。

その時の涙は、間違いなく同情の涙だった。この人は、こんなに可愛い子供を置いて逝かなければいけないのか。なんと無念なことだろう。

 

在廊されていた幡野さんに話しかけ、サインを頂いた。歳は自分と一つしか違わない、夫と同い年なのに、とても年上に思えた。初対面のただの客にニコニコと対応してくれた。同情の言葉はとても口に出来なかった。「可愛い息子さんですね。」と言うと、「そうなんですよ。」とニコニコ返された。

笑顔の胸の内なんて、私が知る由もない。

私が幡野さんを知ったのは、ほぼ日経由だったけれど、この本は、幡野さんがほぼ日と繋がる前から、準備されていたと知って驚いた。話題の人になったから、書くんじゃない。書きたくて、書かれた本だった。

そのことに関しては、読んでとても納得した。

日記というような個人的なものでなく、出版し、発売され、外に向けて出されたからこそ、残せる本なのだと思った。

幡野さんはご家族に向けても書いたとおっしゃっているが、例えば、死後見つかる手紙のようなものとは、全然違う。

これは、家族に内情を語る本ではなく、世間に向けた宣言なのだ。

「自分は、こう生きる。こう死ぬ。こう家族を守る。こう家族に残す。邪魔するな。」

そういう宣言なのだ。

そう考えれば、とても個人的なものだと思うし、時折感じる違和感は、他者の主観を聞いた時に感じる自分との違いでしかないのだと気づいた。

これは、社会学者の学術書じゃないし、ガン患者の闘病日記でもない。

個人的な動機で取材し、考察し、行き着いた、個人的な目的を達成するための手段としての宣言を記した本である。

 

ここで言う『家族』とは、幡野さんにとっては、妻と子供だ。NASAが定義するところの、『直系家族』。

家族の最小単位は夫婦だ。赤の他人同士だ。そこに両方と血の繋がった子供が誕生し、成長して、また新たな家族を作る。(もちろん例外はある。)

夫と結婚した時、夫は、私が夫の家の戸籍に入るものだと思っていたと知り驚いていたことを思い出した。

婚姻関係を結ぶことを入籍とも言うが、正しくは作籍じゃないだろうか、と有名漫画家も言っていた。

子供をやめて、夫や妻として新たに家族を作る。それが現代の結婚だ。

子供であることは、止められる。戸籍上は。

戸籍上だけでなく、事実上、子供を止めたっていいんだよ、と幡野さんは言う。

もちろん、その必要があれば。

現代社会において、結婚を強要されることは、ほぼないと考えた時、結婚相手は、選べる。親は選べない。でも、配偶者は選べる。

私自身は、選んだ配偶者に悩まされることも多く、選べるのはいいけど、選ぶのは難しいことだよ、とも思う。

 

幡野さんの文章は、スッキリとしていて、あっけらかんとしているように見える。ガンでも、近々死ぬと分かってても、それを受けいれ、そのうえで、やりたいことをやっているように見える。

まして、その事実をブログで発表していると、ほとんど悟りを開いた人のように思える。

こんなタイトルのブログをやっている私が言えることではないけれど、多くの人は、話したいのだと思う。自分のことを知ってほしい。できれば肯定してほしい、好きになってほしい。

受け入れてくれそうに見えるのは、だいたい聖職者だ。悟りを開いた人は、聖職者のように見えて当然だ。

幡野さんのところに届く膨大なメッセージの中で、話をしたいと思うのは、やっぱり共有できるものがある人なんだと思う。

自分がガンになった人、親をガンで亡くした人、親に暴力をふるわれた人。

幡野さんも文中で、特例だと言っていたけれど、正直、共感できるところは少ない。私にとっては、まさに特殊な事例にしか思えない。

ただ、そういう人もいる、ということを知ることが大事なんだろうと思った。

 

人の想像力には限界がある。想像は、やはり経験に基づくところが大きい。

夫と喧嘩する時、上司の自慢話を聞く時、「うるせぇ、主語が自分の話を一般論のように言うんじゃねぇ。てめぇが世界の中心のつもりか。」と思うことが多々ある。

立ち位置は自分一人分だし、目線は自分以外になれないから、自分にとってはそこが世界の中心であることは全て否定はできないけれど、隣に人が立った時、その人にとっての中心は私にとっての隣であることを忘れてはいけないと思う。

普遍の真理なんて、そう簡単には見つからないし、決まらない。それでも、個人としての生きやすさを求めて、模索するのは間違いじゃないはずだ。

人は死ぬ。必ず。全ての人が死ぬ。それは、数少ない普遍の真理の一つだ。変えようがない。今も昔も変わらない。

多くの人が、自分が死ぬ時のことを想像したことがあるだろう。

事故で、災害で、病気で、老いて、自らの手で、死ぬことがあるかもしれない、いや、いつか必ず死ぬのは避けようもない。

でも、どうやって死ぬかは、決められないのも当然だ。だって、いつ、その瞬間が訪れるかわからないのだから。

それなのに、どんな最期を迎えるにしても、なぜかどこかで、安らかに死ねると思ってないだろうか。事故で即死し、災害で即死し、病気で息を引取り、老いて眠るように、自殺でさえ、死にまでの苦しみの時間をちゃんとカウントして想像している人が、どれぐらいいるだろう。

苦しみの時間があることをよく知っている人が、苦しみたくないと言うことの、何が悪いんだろう。

息をすることと、生きることは、必ずしも同義じゃないかもしれない。

 

本の中で、幡野さんは、幸せだと言う。死ぬのがわかっていても、幸せ。

幸せは、武器になる。つけ入り、入り込み、奪おうとする人達と戦う武器。

それは、強大な武器だ。

幡野さんは、笑う。写真を撮り、SNSにあげる、相談に乗り、文章を書き、それをネットにあげたりする。それらは、幡野さんの一部だ。

私は推しが出来てから、表に立つひとのことを考えるようになった。表舞台に行かない私は、裏を見たがる。本音を知りたがる。本当はそんなこと、思ってないんでしょう、と、表で言っていないことを言わせようとする。

でも、表に行かない以上、私はその人そのものを知ることはできない。

たとえ、隣にいたとしても、全てを知ることはできない。それが当たり前だ。それでいいのだ。

表にいる人が、見せようと思って見せてくれることが、私にとって、その人の全てだ。

私は幡野さんが見せてくれることしか知らない。それでいいのだ。

トークショーは、再来週。どんな話を聞けるのか、とても楽しみ。