私の事しか語れない。

日々の彼是。脳内垂れ流し。

変わらないものと変えたいもの。

正月ボケと正月太りが解消されないままに、1月が終わりそうです。できれば、ずっと休みたい。働きたくない。欲しいものは不労所得。私です。

先日、久々に高校の同級生と集まりました。と言っても、私を入れて3人。しかも、そのうちの一人とは、2~3ヶ月に1回ぐらいのペースで顔を合わせてます。なので、実質的に久々なのは、もう一人の、遠方に住んでる子だけ。

とは言え、彼女の夫さんは、実家が関東なので、1年に一回ぐらいのペースで会ってる気がします。でも、今までは、昼間しか会っていなかったので、飲みに行くのは本当に久々。というか、学生の頃は、あまり飲む習慣が無かったし、ご飯食べてお茶をするのが定番で、飲み屋に行くことも少なかったから、このメンバーでガッツリ飲んだのは初めてだったかもしれない。

都内のオサレなダイニングバーを予約したら、ロフトスペースの個室とも言えるような席だったので、廻りに気兼ねせず、大いに飲んで食べて、たくさん話すことが出来ました。

既婚子持ち、既婚子無し、独身と、それぞれ状況は違えど、それぞれ、似たような悩みを持ってたりするわけで。それぞれ、おおっぴらには人に話せないような愚痴を言い合うことで、秘密の共有をしてるような気になりました。

正直、飲みすぎたので、喋りすぎた気がしないでもない。気の置けない友人なので、何も気にされてないだろうけど。暴言は吐いてないはずだから、多分、大丈夫。

今度は、遠方に住んでる彼女の所に、遊びに行きたいな。

3時間たっぷり、飲んで食べたところで解散。友達の一人と途中まで一緒に帰り、別れるところで、スマホを確認したら、旦那から、まだ会社にいるというメッセージが・・・。終電間近なのに、迎えに行きましたよ。車でもないのに。しかも、会社の最寄りに行くローカル線が終わってたので、乗り換え駅から会社まで30分近く歩きました。靴、新しかったのに。

既婚の友達夫婦と、私達は、面白いぐらい真逆で。それは、彼女と私が、割りと真逆だからなんだと思う。彼女だったら、夫からのラインスタンプ一つで、来た道を戻ったりしたりしないんだろうな、と思いながら歩いていた。

そもそも、彼女は、うちの旦那ようなタイプとは、付き合おうと思わないだろうな。彼女の夫さんのことを全てよく知ってるわけじゃないから、彼女なりの苦労などもあることは、わかっているけれど、旦那に対しての愚痴を言うと、そんな旦那を選んでしまう、自分が悪いんだなと思うしかなくて、なんだか情けない。なんて、旦那のことばかりを悪し様に言ってしまうのも、卑怯な話だな。私が主役なら、旦那を適役に見立てるのは、とても簡単なことだもの。旦那だけが悪いわけではないよ、もちろん。

数日前、自分のタイムラインで、自分の配偶者をなんと呼ぶか、という話題が上がっていて、旦那や、主人と呼ぶなんて!という考え方があることに驚いた。

言葉の意味を取れば、旦那や主人は、隷属関係を示唆しているし、そう呼ぶことで、自分が下の立場であることを表していることは、わかっていたけれど、私は自分の配偶者を他人の前で旦那と呼ぶのは、敬語や丁寧語の類のものぐらいに思っていた。

意識が低いと言ってしまえば、それまでだけれど、そう呼ぶことで、無意識に自分は、旦那の嫁であるという感覚を埋め込んでいたのかもしれない。

ここでも、旦那と呼ぶのは、主人や夫と呼ぶよりは、崩した感じが出て、親しみやすいと思っていた。でも、そう呼ぶことで、自分は下だと思い込んで、相手にも、自分は従うものだと思われるのは嫌だなと思った。

さて、どうしたものかなと思っていたところで、録画しつつも見れていなかった『カルテット』を見たら、作中で普通に、「夫さんは・・・。」などと言っていた。なんてタイムリー。むしろ、TLの賑わいも、これ発信だったのかしらん。ドラマの中で、何度も「夫さん」と繰り返されると、違和感が無くなってきた。

実生活では、夫のことはアダ名で呼んでいる。大したアダ名では無いけれど、全世界に発信したいようなアダ名でもないので、これを機会に、夫に、改めようかね。彼は、私の夫であって、ご主人様でも、旦那様でも無いもの。私は彼の妻であって、下女でも家政婦でも無いもの。

そんな風に、考え過ぎても、夫には伝わらないし、夫は変わらない。大人になってから、自分を変えられるのは、自分だけだと思うから。

先週ぐらいから、夫の調子が悪くて、病院に行ったら、痩せろと言われたらしい。胃と食道が良くないので、食生活にも気をつけてねと指導されたらしい。「こういう食事が良いらしいよ。」と紙を渡してくるのは、いいけど、自分の選ぶ目を養わないと、食生活は変わらないと思うんだよな。食べることは、そのまま生きることにつながるし、体は食べたもの以外では作られない。そんな当たり前のことを、自分で意識しないとどうしょうもないと思うんだ。

私は夫の食事を作る。それは、全幅の信頼を置かれて、任されている。食事に毒を入れない、食事を不衛生に作らない、極端に大量にしたり、少量にしたりしない、そういう信頼を置かれてる。塩分過多にして、糖質多くして、脂肪肝にして、糖尿にして、血管を破いて、心疾患や、脳卒中を起こすのは、実は、そんなに難しくないんじゃないかと思ってる。毎日の食事を作るって、それぐらい責任重大なことなんだね。

世の中の、妻に食事の一切を任せている夫君達は、もっと命を預けてることを自覚したほうがいいと思うな。

私は、ダイエットをしてるから、偏ってはいるものの、多少の知識はある。でも、それは、自分が変わるための知識であって、その中の、どれを実行して、どこを諦めて、どう続けていくか、自分で決められる。でも、知識の少ない夫は、何ができるかも、分からない。それで、私に、何がいい、何を食べればいいと、聞かれても、私に分かるわけがない。だって、私と夫は違う体だもの。夫に強制できるものなんて、ないんだよ。

私は決めるのが苦手なんだと思ってた。でも、少し違う。自分が決めたことが、他人に影響を及ぼすのが苦手なんだ。行く道を私が決めて、それが後から遠回りだと気づいた時に、攻められるのが嫌なんだ。遠回りでも、坂道でも、自分だけが歩くなら、なんとも思わない。ああ、他の道行けば良かったなと思うだけ。でも、他人から、例えば、夫から、どうしてこっちにしたんだ!って言われると、どうしていいかわからなくなる。だって、選んだことに、大した理由なんてないから。なんとなく、こっちだと思ったから。そして、その時に、私に選ばせた、夫が悪いと思ってしまう。文句を言うなら、夫が選べばよかったのに、と思う。さて、責任転嫁はどちらだろう。

『カルテット』は、某俳優さん目当てで見ている。番宣含めて、ここ数ヶ月に沢山の番組に出演してくれていて、とても嬉しい。インタビューなどで話されることが、とても一貫しているのが、当たり前のことなのかもしれないけど、すごいなと思う。

私は矛盾している。自分のことしか決められない。夫に知られたくないことが沢山ある。『カルテット』の中での台詞が印象的だった。まだ、先がわからないので、何を意図しているのか、本当に言われたことなのかも分からないけど、印象的だった。

「愛してるけど、好きじゃない。」

夫のことは、大事だし、好きだと思う。でも、全部かと言われるとそうじゃないし、無償の愛で繋がってるとも思えない。それでも、自分で決めたから。一生、一緒にいるんだと、決めたから。

一緒にいる間に、何を思うかは、私の自由。同じ自由を夫も持っていると思っている。休日に、私だけで近所のコンビニに行くことになった。近場では4軒。私は、坂を下ったところにあるコンビニに行くと言った。夫は、坂の上のコンビニに行けばと言う。ソッチのほうが近いから。時間を無駄にするなって。

分かった。坂の上に行ってくる。そう言って、家を出て、私は坂を下る。そして、買い物を済ませて家へ戻る。夫から、遅かったねという言葉は無かった。

上手く言葉には出来ないけど、私は、それでいいと思うんだ。夫はどう思うかは分からないけど。別に、いいと思うんだ